小豆坂(あずきざか)合戦ノ図 蓬左文庫蔵
【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第1章 天下布武への道 1 勝幡城・那古野城の時代(蓬左文庫第1室東側)
展示番号 23番
第1章 天下布武への道 1 勝幡城・那古野城の時代(蓬左文庫第1室東側)
展示番号 23番
原さん
岡崎の南・小豆坂(岡崎市戸崎・羽根町)で行われた太原雪斎(たいげんせっさい)率いる今川家および松平家の連合軍と織田信秀(信長の父)勢との古合戦図です。
おいでよ天下人の城展
小豆坂(あずきざか)の戦いですね。
原さん
記録上では天文11年(1542)と同17年の2回行われ、1度目は織田が勝利、2度目は織田が大敗したと言われていますが、実際は天文17年の1回だけではないかと考えられています。
おいでよ天下人の城展
そうなんですか。2回あったと思ってました。
原さん
この敗北により織田の勢力が弱まり、続いて安城城(安城市)も奪われ結果として三河より撤退することとなりました。
おいでよ天下人の城展
安城城は矢作川を挟んで、岡崎城の対岸ですね。織田信秀はだいぶ三河の中心まで攻め込んでいたのですね。ぅにょんさんのイラストでチェックしましょう。
原さん
この後、織田は今川におされ勢力範囲の境界は徐々に後退しました。天文21年、信秀が亡くなった際に鳴海城主・山口教継(やまぐちのりつぐ)も今川方に寝返ったため、織田領と今川領の境は今の天白川あたりとなりました。小豆坂合戦以前は矢作川が両勢力の境界で、信秀の死までわずか数年の間に織田勢力はどんどん縮小していたことが分かります。
おいでよ天下人の城展
今川義元との因縁は、桶狭間の戦い(1560年)よりも前からずっと続いているんですね。もとを正せば、信秀が今川氏の飛び地の那古野城を奪ったことかもしれませんけど。
原さん
織田家が今まで敵対関係にあった斉藤家と同盟を結ばざるを得なかったのは、この勢力縮小に危機感を抱いたからです。戦国時代は状況によって手を結ぶ相手が頻繁に変わり、まさに昨日の敵は今日の友、今日の味方は明日の敵状態でした。誰がどの相手と協力関係にあるかを見ることによって、当時の勢力が分かります。
おいでよ天下人の城展
信長と濃姫の結婚は小豆坂の敗戦があってからこそなんですね。
原さん
ちなみに桶狭間の合戦は両国の国境となった天白川周辺で行われた戦いとなります。
おいでよ天下人の城展
矢作川、天白川。途中にある三河と尾張の国境の境川の立場がないですね。あの川は実質的な国境になるにはあまりにも川幅が狭すぎだからでしょうか。
次は【24】今川義元感状 御宿藤七郎宛 安城城攻防戦を描写した大迫力の戦争ルポ
【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第1章 天下布武への道 1 勝幡城・那古野城の時代(蓬左文庫第1室東側)
展示番号 23番
第1章 天下布武への道 1 勝幡城・那古野城の時代(蓬左文庫第1室東側)
展示番号 23番