7/15~9/10開催の企画展「天下人の城」(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)について徹底リポート!

「天下人の城」〜徳川美術館応援団〜

展示紹介

【27】斎藤范可(義龍)禁制写 美江寺宛 美濃で起きた道三追放の軍事クーデター

更新日:

斎藤范可(義龍)禁制写 美江寺宛 蓬左文庫蔵

【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第1章 天下布武への道  勝幡城・那古野城の時代(蓬左文庫第一室東側)
展示番号 27番
おいでよ天下人の城展
前の26番で、尾張が内紛状態で信長のことを心配していた美濃のマムシ斎藤道三でしたが…
原さん
道三の息子の義龍(よしたつ)が、父道三に対し公然と反旗を翻すのです。その時、稲葉山城下の美江寺(岐阜市)に対して与えた禁制です。范可(はんか)と署名がありますが、義龍のことです。
おいでよ天下人の城展
信長より先に、自分のほうが大変なことになったんですね。さて、禁制とはなんでしょう?
原さん

禁制というのは戦時における安全保障証のようなもので、寺側がお金を出して、自分の寺に乱暴狼藉をしないでくれ、火をつけないでくれ、木を切らないでくれなどを約束させるものです。無料でもらうわけではなく、軍資金のような形でお金を出して発行してもらう保証書です。これをもらって木の板に内容を書いたり、紙に書いて貼ったりして掲示します。
おいでよ天下人の城展
ただでもらえるのでないということは、お寺がお金を払ってでも欲しいという状況だったということなのでしょうか?
原さん
義龍が美江寺に対して禁制を出しているということは、この当時、美濃が戦闘状態に陥る危険性があったということになります。義龍はクーデターに近いことを敢行しており、この書がかかれた弘治元年(1555)12月は、美濃の実権を握った段階で、道三に可愛がられていたとされる弟2人を殺した直後にあたります。つまり稲葉山城を乗っ取ったと言えます。
おいでよ天下人の城展
道三は隠居していたといわれていますが。
原さん
実際は、隠居した形跡はなく、義龍によるクーデターです。正確に言うと美濃国人衆による道三追放劇と思われます。道三は一旦逃げざるを得なくなり、その後反転攻勢にでますが、道三に味方するものはほとんどおらず、翌年の長良川の戦いで討ち死にすることとなります。このことは道三が死んだということだけではなく、視点を変えて見ると、道三と同盟を結んでいた信長の立場が悪くなった出来事と言えます。信長は同盟の関係上、美濃に出陣するが援軍は間に合わず、道三の討ち死にで美濃との同盟関係が破れることとなりました。これで信長は北にも脅威を抱えたことになるのです。

【28】斎藤高政(義龍)書状 織田武蔵守(信勝)宛  信長の兄弟の仲を切り裂く一通の書状へ続く

【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第1章 天下布武への道  勝幡城・那古野城の時代(蓬左文庫第一室東側)
展示番号 27番

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