愛知郡末森村古城絵図
【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第1章 天下布武への道 勝幡城・那古野城の時代(蓬左文庫第一室東側)
展示番号 25番
原さん
名古屋市千種区に現存する織田信秀が築いた城です。信秀の没後に信長の弟・信勝の居城となり、信長の母・土田御前(どだごぜん)も在城したと『信長公記』に書かれています。
おいでよ天下人の城展
なんどか出てきていますが、信秀は信長のお父さんですね。
原さん
弘治3年(1557)に信勝が信長によって殺害された後は信長の支配下に置かれたと考えられています。その後の詳細は不明ですが、この城の珍しい点は、200万都市名古屋のど真ん中と言ってよい場所にも関わらず当時の遺構が良好な状態でほぼ残っていることです。
おいでよ天下人の城展
名古屋市民で住みたいところNo1の覚王山駅から徒歩10分もしないところにありますね。
原さん
とにかく非常に良い城です。これは城山八幡宮という神社の境内になったことも大きいです。昔は遺構が見づらかったのですが、最近神社が木を伐採したおかげで8メートルにおよぶ大切岸が良く見えるようになっています。
おいでよ天下人の城展
結構、大きいお城ですが、信秀の時代もこれくらいだったのですか?
原さん
この城の図面に描かれているのは城の最終形態であり、信秀がいたであろう時代の曲輪(くるわ)配置ではありません。絵図には、今はありませんが丸馬出(まるうまだし)が描かれており、横矢もかかる構造になっています。丸馬出が描かれていることから考えると、おそらく小牧・長久手合戦あたりで、どの武将かは分からないが入城して改修が行われたと考えられます。一部は、古い構造が残っているかもしれませんがそこを図面から読み取るのは難しいですね。城自体は古くからある城ですが、絵図に残るのは変更が加えられた後の、最後の状態です。それでも、城そのものは天正期(信秀の時代)からあるもので、都市部でここまで残るのは奇跡といってもよいほどの、とてもよい城です。
おいでよ天下人の城展
ちなみに徳川美術館から末森城へは地下鉄1本で行けるんですよ。名城線の大曽根駅から本山駅まで10分です。天下人の城展のあとにぜひ行ってみてらいかがですか?
3度、本拠地を変えた織田信秀
末森城の築城については、読売新聞の「探訪 東海百城」の「信長の父」シリーズでも取り上げられています。下に引用します。
織田信長は天下取りを目指し、本拠地を次々に変えたことで知られている。1か所に腰を据えた有力な戦国大名が多い時代に、本城を移すこと自体が珍しい。生涯に5度本拠地を移した信長の行動は、3度変えた父・信秀ゆずりだった。
信秀は、津島(愛知県津島市)の港に近い勝幡城(同県稲沢・愛西市)から、1538年頃に攻め落とした那古野城(のちの名古屋城、名古屋市中区)に移った。その後、約3・5キロ南の古渡城(同)を築城し移り住んだ。津島に並ぶ港町の熱田を押さえる目的だったとみられている。
信秀の動きについて、村岡幹生・中京大教授(日本中世史)は、「自分より上の存在である守護の斯波氏や守護代の織田氏がいた信秀は、守護のいる清須城(愛知県清須市)などを避けて尾張周縁部に支配圏を広げています」と解説する。
尾張国では、守護、守護代に続くナンバー3だった信秀は、彼らを倒して尾張の大名になる道を選ばなかった。しかし、尾張全体の兵を率いて戦い続けることで、事実上のナンバー1と周りから認められてきた。
そんな信秀にとって、守護が不在で、盟主的な存在の松平氏も内紛を起こしていた三河国は絶好のターゲットだった、と村岡さんはみる。
1540年からほどなく、信秀は西三河の安城城(同県安城市)を松平氏から奪い、三河攻めの前線基地とした。むろん、松平氏も黙っていない。駿河(静岡県)の大名今川氏の援軍を受けて攻勢をかけてきた。
信秀は48年頃、末森城(名古屋市千種区)を新拠点に選んだ。古渡城から東に約5キロしか離れていないが、大きな変化だと村岡さんは言う。(略)
次は【26】斎藤道三書状 織田玄蕃允(秀敏)宛 「むこ殿の信長を助けてあげて」
【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第1章 天下布武への道 勝幡城・那古野城の時代(蓬左文庫第一室東側)
展示番号 25番