7/15~9/10開催の企画展「天下人の城」(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)について徹底リポート!

「天下人の城」〜徳川美術館応援団〜

展示紹介

【130】春日井郡清須村古城絵図 清須越し後の最終段階の姿を描く

更新日:

春日井郡清須村古城絵図 蓬左文庫

【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第2章 巨大城郭の時代 (本館7室①)
4・清須城
展示番号 130番
原さん
尾張藩が調査した古城図面の一つです。清須城は名古屋築城時に廃城となりますが、 土塁や堀などは明確に痕跡を残しており、最終段階の清須城の姿が描かれています。
おいでよ天下人の城展
大きいお城ですね。
原さん
本丸を中心に三重の堀に囲まれた構造で、南北約2・5キロ、東西1.5キロにおよぶ巨大な城郭でした。最新の枡形構造を備えていたことがわかってきました。五条川に面するところにはちゃんと石垣も設置されていました。これも発掘で見つかっています。
おいでよ天下人の城展
一時とはいえ、天下人の後継者になった信雄にふさわしい規模ですね。
原さん
これほど立派な城でしたが、五条川が城の中心部を流れていて、水運には適しているが、水害に弱い地形だったため、家康によって名古屋への移転が決まりました。
おいでよ天下人の城展
あれ?水攻めに弱いから、ではなかったですっけ?
原さん
水攻めに弱いから、とのかつての定説は、資料の漢字を読み違えていたことが最近判明しました。家康は、「水攻め」ではなく「水害」を心配していたのです。

次は【131】「天正十四年」紀年銘瓦 織田信雄の清須城改修を裏付ける刻まれた証拠

廃城後の清須城の姿は?

 

清須城に関する古絵図としては現在では4枚程知られています。
この中で一番城下の復元に最も参考になる絵図は名古屋市蓬左文庫が所蔵する展示品の絵図です。

ポイントはこの絵図は廃城になるまでの最終段階(後期)の城の姿を描いた貴重な絵図でも有ります。
この資料を元に後世の写しと見られるのが、現在は大分県臼杵市立臼杵図書館が所蔵する【尾州清州之古城】【尾州清州之城図】などです。

美濃路の清州宿(江戸時代以降は「清」)として役割を変更し継続をしていました。
廃城後はかつての繁栄の姿とは全く違うものに変貌します。

しかし現代では清須城跡は「模擬天守清州城」として形を変え、市民や観光客に親しまれる存在となっています。

一方、信長の安土城(滋賀県近江八幡市)は廃城になると、その地域の城と城下町は、近江八幡へ移りました。
その後の安土城下は繁栄とは程遠い姿になってしまいました。

織田信長の聖域と側面が強かったからでしょうか?
そこに入る城主もその後は居なかった訳ですから、城下が繁栄する事は無かったのだと印象が残る安土城下です。

まとめ:にの

参考写真 清須城天守台跡 尾張名所図解より

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【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第2章 巨大城郭の時代 (本館7室①)
4・清須城
展示番号 130番

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