7/15~9/10開催の企画展「天下人の城」(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)について徹底リポート!

「天下人の城」〜徳川美術館応援団〜

展示紹介

【128】織田信雄画像 【129】松平忠吉画像 名古屋の原点「清須城」の城主たち

更新日:

【128】織田信雄画像 名古屋市・總見寺 前期(8/15まで)
【129】松平忠吉画像模本 (原本 名古屋市・性高院蔵)  徳川美術館蔵 後期(8/16日から)

【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第2章 巨大城郭の時代 (本館7室①)
4・清須城
展示番号 128、129番
おいでよ天下人の城展
巨大城郭の時代の4番目は「清須城」です。ただ、「天下人の城」という印象がないのですが?
原さん
今回は、尾張にある地元の城なので、あえてコーナーを作りました。
おいでよ天下人の城展
新幹線で大阪方面へ行くときにすぐ隣に見えるので、県外の人にも知られている「清州城」がありますよね。
原さん
今残っている、残っているという言い方が正しいかどうか分りませんけど、昭和に作られた模擬天守の清州城ではなく、歴史的な清須城を取り上げます。
おいでよ天下人の城展
今回の展示では、歴史的な名称として戦国時代に使われていた「清須」を使うのですよね。
原さん
第一章の蓬左文庫で展示していた織田信秀・信長時代の清須城と、今とりあげる秀吉・家康時代の清須城では、中心部が異なっていることが最近の調査でわかりました。信長時代は、今の模擬天守が建っている川の東側、後者の時代は公園になり天守台跡の土台の高まりが残っている西側になります。
おいでよ天下人の城展
ややこしいですけど、川を挟んで、東→西→東(現在)となっているのですね。

清須城主・織田信雄(信長の次男)と松平忠吉(家康の4男)

原さん
小牧・長久手の戦いで秀吉に敗れたとはいえ、一応、秀吉配下の一大名として清須城を居城としたのが尾張一国を領することになった織田信雄(のぶかつ、1558−1630)です。
おいでよ天下人の城展
映画などでも愚かな息子というイメージで描かれていることが多いですね。
原さん
たしかに、小田原北条家が滅亡した後に家康の旧領への移封を、信雄が断ったことによって、秀吉の怒りを買い、織田家は一時改易されるという悲惨な運命になります。こういう政治的判断を誤ったということで、信雄は無能だ無能だというふうに言われてますけど、果たして、それが本当なのか、城の観点から見直そうという試みです。
おいでよ天下人の城展
どうだったのでしょうか?
原さん
彼が作った、この巨大城郭となった清須城を含め、三重方面ですと、信長が生きている時代ですが、伊勢の本拠とした田丸城(玉城町)が、天下人の城に相応しい、重厚な枡形構造を持つ城として作られています。少なくとも城造りに関しては無能ではなかったということが分ります。
おいでよ天下人の城展
田丸城は、今年、「続日本100名城」にも選出されましたが、信雄が作った城だったのですね。前にも紹介しましたが、

読売新聞の「探訪 東海百城」 <信長の次男>で、信雄の城つくりや領地経営に再評価の光があたっています。

 

千田先生
「この城はすごい。とても大うつけが造れる城ではありません」(同連載より
千田先生
「『チーム信雄』は、ほとんどの支城の領地経営に成功したようです。興味深いのは、独裁的なトップダウンだった父親と対照的に、信雄は部下に大幅な権限を委譲したことです。部下たちにとって信雄は非常に働きがいのあるリーダーだったことでしょう」(同連載より
おいでよ天下人の城展
また、当展覧会の第三回(9月8日)の特別講演会の講師の本郷和人・東大史料編纂所教授もこの連載で以下のように再評価しています。「

 信雄は父と同様、部下に対して残虐なイメージが根強い武将だった。これには1584年の小牧・長久手の戦いの直前、羽柴(豊臣)秀吉と通じていると疑った3人の重臣を、長島城(三重県桑名市)へ誘い出して殺害した事件がある。結果的に秀吉に下ることになる無謀な戦いに突入したとして、「この事件は信雄のイメージの上で『傷』となっていますが、ナンバー2を引き抜くのは秀吉の得意技。実際に、その後、徳川家康は岡崎城を任せていた重臣の石川数正(かずまさ)を、島津家でも重臣の伊集院忠棟(ただむね)を引き抜かれています。信雄は『人たらし』秀吉の一手を未然に防いだと言えるかもしれません」と本郷さん。裏切ろうとするものには厳しくても、自分を信じてついてきた家臣には意外と慕われていたのかもしれない。(同連載「旧家臣の家に受け継がれた「雄」の字<信長の次男4>」より引用

*なお、本郷先生の講演会の申し込みは徳川美術館のHPもしくは、抽選なしで名古屋駅から送迎のバスツアーは読売旅行のHPから

原さん
その信雄の画像が、名古屋の菩提寺のひとつであります、總見寺にあります。
おいでよ天下人の城展
巨大城郭としての清須城の初代が織田信雄で、2代目が次の松平忠吉ですね。
原さん
信雄の築いた清須城に関ケ原の合戦の後に入り(間に福島正則らが城主を務めています)、さらに改修を加えたのが、家康の四男松平忠吉(1580-1607)です。
おいでよ天下人の城展
28歳の若さでなくなるのですよね。代わりに入り、名古屋城主となるのが家康9男で尾張徳川家藩祖の徳川義直さまになるわけですね。ここらへんの経緯は、別途、原さんにお聞きした「「徳川美術館」はなぜ江戸や水戸でなく名古屋にあるのか?」(武将ジャパン)に寄稿しておりますので、お時間があるときにお読みください。
原さん
この二人の肖像画を前期と後期で入れ替えて、城主の変遷を紹介いたします。

次は【130】春日井郡清須村古城絵図 清須越し後の最終段階の姿を描く

【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第2章 巨大城郭の時代 (本館7室①)
4・清須城
展示番号 128、129番

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