「天正十四年」紀年銘瓦 清州城下町遺跡(清須城中堀跡)出土品 愛知県埋蔵文化財調査センター蔵
第2章 巨大城郭の時代 (本館7室①)
4・清須城
展示番号 131番
次は【132~136】清須城跡から出土した金箔押桐紋・木瓜瓦など 織田家の棟梁に選ばれし者のみに許された金箔瓦
名古屋の前の中心だった清須
戦国時代から江戸初期まで清須城は尾張国の政治的な中心の地でした。
慶長12年(1607)に来日した第1回朝鮮通信使の道中日記「海槎録」にはこう書いて有ります。
民家の繁盛と人の多いことは、まことに関東の巨鎮である。
簡単に言うと東日本屈指の都市として繁栄しているという意味ですね。
清須が繁栄していた事を示す資料の1つです
繁栄とは、ではどのような事なでしょう?
政治的に果たした役割 人口規模の大きさ 人口密度の高さ 商工業者の集中…。
現在残されている資料からみて、今から約420年前の清須の「都市」は全国にひけをとらない、いや、群を抜いて繁栄していた事がわかります。
応仁の乱で尾張の守護所が移転
清須城は応永12年(1405)頃、守護所下津の別廓として守護斯波氏により築城されたのが始まりと伝えられています。
応仁元年(1467)に始まった応仁の乱により、尾張の守護の斯波氏と守護代の織田氏は東西に分かれる事になりました。
そして、守護・守護代は下津から清須へ完全に移りました。
その後、織田信長が弘治元年(1555)、守護代家の織田信友を倒し、清須城へ入城しました。
織田家同士の内紛や天正地震、清須城にはいくつかの転機があります。
ではどのようなものでしょうか?
清須城は前期と後期の時代に大きくわけて2段階あります。
古・清須城と新・清須城
文明10年(1478)~天正14年(1586)あたりが前期の清須城とその城下町と考えられています。信長がいたころですね。
その様子は現在のところ殆ど解明されていないのが現状でしたが、発掘調査によって地下に見える痕跡が判明しつつあります。
この「天正十四年紀年銘瓦」は、後期の清須城跡からの出土品です。天正大地震により伊勢長島城から居城を移した織田信雄は天正14年に清須城に入りました。
城郭と城下町を大きく改修し五条川右岸(西側)に本丸を縄張りし天守を建てたと伝わります。
城下は短冊型地割の町屋など拡張し3重の堀で囲む城、いわゆる「織豊系城郭」と変貌を遂げます。
現在残る遺構も大部分は信雄時代のものであった考えれています。
そして慶長15年(1610)清須越しの為、廃城を迎えます。
まとめ:にの
次は【132~136】清須城跡から出土した金箔押桐紋・木瓜瓦など 織田家の棟梁に選ばれし者のみに許された金箔瓦
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4・清須城
展示番号 131番