第2章 巨大城郭の時代 四 金箔瓦の荘厳(本館7室1)
(二)大坂城
展示番号98
賤ヶ岳合戦は信長亡き後、織田家中の主導権争いにより、天正10年(1582年)12月に勃発(本戦は1583年4月)した、羽柴秀吉と柴田勝家の争いです。
8/15までの前期限定で、右隻(8/1まで)と左隻(8/2~8/15)を限定期間中に入れ替えをします。
この合戦図の特徴は、左隻に前田利家の「鍾馗(しょうき)」(中国の道教系の神で魔除け、縁起物)の旗が大きく書かれていることです。
当時の大将は秀吉であり勝家なのに、なぜ配下の前田利家が目立つように書かれているのでしょうか?
この絵は、前田家ゆかりの人物が書かせたものではないかではないかと推測できますね。
実は前田家は賤ヶ岳合戦のことは記録としてほとんど残していないそうです。
柴田勝家の与力だった前田家は、秀吉と内通し、前線で撤退したことによって体制が変わり、勝家敗戦に大きく影響をさせます。歴史の勝者である秀吉側からすれば大殊勲ですが、勝家側からすれば明確な裏切りです。
前田家は江戸時代も大大名として生き残りましたが、「主君を裏切った」ことには違いないので、気まずさから封印されていたのかもしれません。
中央に「鍾馗(しょうき)」の旗を掲げた前田利家勢をひときわ大きく配置し、勝家勢の退却と秀吉勢の追撃を描いています。
そして、左中央には勝家の金御弊馬標(きんごへいうまじるし、福井市の西光寺にあります)を預かり、身代わりとなって討ち死にする毛受勝照(めんじゅかつてる)が描かれています。
毛受兄弟の墓。
身代わりを決意し、勝家から馬標を預かったとされる狐塚。
次は【99】羽柴秀吉書状「岡本太郎右衛門・木下平太夫宛」長島城の滝川一益対策はぬかりなく!
もっと屏風絵を楽しむための賤ヶ岳の戦い解説
賤ヶ岳の戦いとは一体何だったのでしょうか。
なぜ前田利家が裏切ることになったのか、その背景などを簡単にご説明しますね。
この戦いの発端は、天正10年(1582年)6月の清須会議。
秀吉は信長の次男・信雄(のぶかつ)を、勝家は信長の三男・信孝(のぶたか)を擁し、最終的には秀吉を後見人とし、信長の孫で当時3歳の三法師が家督を相続することになりました。
なんとなく「秀吉が織田家のリーダー」という空気になっていましたが、古参の勝家らがそれを許すはずがありません。
以降、戦いを想定し秀吉と勝家は周囲の大名を取り込む協力体制を徐々に作り始めていきます。
そして10月、勝家側から前田利家・金森長近らを通じて和睦を持ちかけられる秀吉。
しかし秀吉はこの和睦は「雪が降る期間は動きが取れない間の時間稼ぎ」と読み、和睦に来た前田利家らを調略してしまいます。
そして秀吉は12月、近江の長浜(琵琶湖近く)と岐阜城を攻め、長浜城の柴田勝豊(勝家の養子)、岐阜城の信孝を降伏させることに成功。
勝家としてはすぐにでも挙兵したいところですが、北の庄(のちの福井城、福井市)は雪深く動きが取れません。
膠着している間、天正11年1583年の1月に勝家側の滝川一益が伊勢で挙兵、長島城(三重県桑名市)の籠城戦で秀吉軍を翻弄します。雪で動きが取れなかった勝家も、ようやく2月末に挙兵。
伊勢と長浜方面の2箇所で戦いが行われましたが、4月16日に岐阜城で信孝が挙兵し3箇所で戦いが行われることになります。
忙しい・・・!
長浜城の北にある山岳部の賤ヶ岳でじっと待ち構えていた秀吉ですが、急な挙兵を抑えるために秀吉は岐阜に移動。
そのスキをついて、4月19日、賤ヶ岳に配された秀吉方の砦群の大岩山砦を勝家側の佐久間盛政(勝家の甥)が奇襲し、秀吉の家臣中川清秀隊を陥落させ、ついで岩崎山砦を攻め高山右近を退却させます。
勝家は準備不十分で戦っている信盛を心配し、早く兵を退却させるよう再三注意をしましたが、勢いづいた信盛は聞き入れず。
前線での戦いをやめませんでした。
しかし4月20日長良川の氾濫のため、大垣城(岐阜県大垣市、岐阜城の手前)で足止めされていた秀吉は大岩山砦の陥落を聞き、賤ヶ岳の麓の木ノ本まで52キロの距離をわずか5時間で移動した(諸説ありますが・・・)という「美濃返し」を行い、急いで賤ヶ岳に戻ります。
そのタイミングで勝家軍の前田利家、金森長近ら秀吉に調略されていた武将たちが次々に戦線離脱。
味方が一気に減った勝家軍は形成が悪化し、大将の柴田勝家は北の庄城へ退却、前田利家ら秀吉の軍勢に包囲され4月24日に、妻のお市の方(信長の妹)とともに自害します。
これで戦いが終わったかのように見えます。ところが、、、
そうした意外な歴史のアフターストーリーがわかるのが次の【99】羽柴秀吉書状「岡本太郎右衛門・木下平太夫宛」長島城の滝川一益対策はぬかりなく!の書状です。
第2章 巨大城郭の時代 四 金箔瓦の荘厳(本館7室1)
(二)大坂城
展示番号98