小牧山城木製模型 江戸時代 個人蔵
3番目の部屋(第二室)では、桶狭間の戦いのピンチを乗り越えた信長が、天下を目指して駆け上った時代である小牧山城と岐阜城を取り上げます。
小牧山城は戦後の研究によって、信長が初めて築いた本格的な城であることが判明した愛知県で最も注目されている城です。
岐阜城は尾張国を飛び出した信長が天下布武をかかげた地です。
信長が日本史を変えたこの時代、城の形も信長によって大きく変わっていきます。「天下人の城」が生まれようとしているのです。
第1章 天下布武への道 3 小牧山城・岐阜城と天下布武(蓬左文庫第2室)
展示番号 53番
山全体に配置された郭(くるわ)、直線形の大手道、山麓を廻る土塁など、現在も遺されている遺構を正確に表しています。
小牧市教育委員会資料より、小牧山の江戸時代以降の歴史をまとめました。
江戸時代に入り、小牧山は尾張藩領となり、「御勝利御開運の御陣跡」として大切にされ、一般の入山は禁止された。
代々小牧村の庄屋を勤めた江崎家が小牧山を管理・保護した。
織田信長の城下町に由来する小牧の町は、上街道の整備に伴い宿駅として整備されるため、尾張藩の命により、元和九年(1623年)、小牧山南麓の位置から小牧山東方の原野(現在の中心市街地)へと移転した。
このため、信長の城下町は田畑となり、地名だけに都市の名残を残すことになった。
小牧村絵図を見ると、江崎氏によって小牧山の周囲に竹垣が築かれ一般の入山を禁止していたこと、田畑の中に城下町の名残の規則的な道路や地名を認めることができる。
また、小牧山は江戸後期には竹材の産地でもあり、天保六年(1835年)、尾張藩江戸屋敷の普請用に竹3万本を送ったり、翌年市ヶ谷の長屋が火事で消失したときも竹材を船で江戸まで送っている。また、名古屋城内の竹垣も小牧山の竹を使ったという。
明治維新により小牧山は政府の所有となる。
明治五年(1872年)、江崎祐八に払い下げられるが翌年には県が買い戻し、県立の「小牧公園」として一般公開された。
このとき、創垂館(現存)が山頂付近の曲輪に建設された。
明治二十二年に再び尾張徳川家の所有となり、尾張徳川家は小牧山を保護するため、小牧山南麓に番人を置き、一定の制限を設けて公開し、登山料を徴収した。
昭和二年(1927年)に小牧山が国の史跡に指定されたのを機に、一般公開され、昭和五年には、小牧町の請願にもとづき、現状を変更しない条件で尾張徳川家は小牧山を小牧町へ寄贈した。
次は【54】春日井郡小牧村古城絵図 小牧山城に今も残る大土塁
まとめ・藤麿呂
小牧山城復元イラストは富永商太(千田嘉博監修)
第1章 天下布武への道 3 小牧山城・岐阜城と天下布武(蓬左文庫第2室)
展示番号 53番