開幕2日目の7月16日(日)、天下人の城展応援団1番の千田嘉博先生(奈良大教授)の記念講座が行われました。
千田先生の講座はとてもおもしろく、詳報したいところですが、濃厚すぎるので、後回し(すみません!)にしまして、
講座後のスペシャルな展示解説を再現いたします。
解説していただいたのは、応援団ブログにも小牧山城の解説を寄せていただいた、小牧市教育委員会の小野友記子さんです。(参考:小牧山城【お城観光ガイド】信長が初めてゼロから造った城)
ご自身が発掘を担当して、今回出展されている小牧山城の出土品について教えてもらおうと、応援団でお願いしました。
この日、突然始まった「ギャラリートーク」には、講座に参加していた城好き、武将好きで有名なラジオDJクリス・グレンさんも一緒となる、豪華メンバーでの観覧となりました。
天目茶碗よりも丼がすごい!
考古学者らしくまず目にとまったのが、
【8】【9】名古屋城三の丸遺跡出土 中国・朝鮮系陶磁器、瀬戸・美濃系陶器 那古野城で暮らしていた武将が使った器
でした。
小野さん この「瀬戸天目」と「平碗」のどちらがレアだと思います?
小野さん ところが考古学の世界では「平碗」のほうが貴重なのです。実は天目は、鎌倉時代以前ですと貴重品ですが、戦国時代になると、わりと一般的な什器(じゅうき)になるのです。一方で、平碗はかなり立派な館跡でしか見つかりません。平椀がみつかると、考古学者はすごくテンションあがるんですよ。
小野さん これは、「さすが那古野城(名古屋城の前身で、信長や信長の父が住んだ)だ」と思います。
小牧山城の築城の秘密があきらかに?
【43】鐙【44】桶狭間合戦討死者書上、初公開の文書は歴史が変わるかもしれないことが書いてある!?
と、展示説明で上記のように指摘されている注目の初公開資料です。
小野さん 千田先生が講座で、この資料から導き出される仮説として、小牧山城の石垣と関係があるかもしれないというお話をされ、発掘の担当者として非常に興味を持ちました。
小野さん 小牧山城の以前には、尾張地方では石垣の城はないとされています。それなのに、なぜ、織田信長は突然、これほどの石垣の城を築くことができたのかは大きな謎です。近江の観音寺城は佐々木氏(六角氏)の城で、千田先生も講座で話されていたように、小牧山城以前の城ですが、石垣がすでにありました。
小野さん 観音寺城の石垣と小牧山城の石垣は技術的に似ています。ただ、細かく見ると、全く同じとまでは言えないのですが、今回の展示で紹介されたことが示唆する意味は大きいと思います。
小野さん いえ、そう簡単ではありませんよ。ちょうど今、クリス・グレンさんが指摘されたように、この書上(かきあげ)という文書の年代は江戸時代のもので、同時代のものではありません。初公開とのことなので、これから「資料批判」(そもそもの資料が正しいかどうかを研究すること)から研究が始まっていくことになります。
信長のオーダーメイド品
【57】小牧山城主郭出土品 次々に新発見が飛び出す「信長の初めての城」
小野さん うわー、こんなにきれいに飾ってもらって、うれしいです!
小野さん かわいいはいつの時代も正義ですね。はじめは実用品にこうしたデザインがほどこされていたのが、「かわいい」だけが抜き出されて、根付(ねつけ)になっていくのです。でも、今回出したもので、面白い品はそれだけではないのです。ぜひこの2つを見てください。
鉄釉掛け流し釉皿(てつゆうかけながしゆうざら)と鉄釉灰釉掛け分け皿(てつゆうかいゆうかきわけざら)
小野さん これらはですね、小牧山の城主が特注した品の可能性があるのです。
小野さん まぁ、そこらへんは考古学的には断定できないので(苦笑)
小野さん まず鉄釉掛け流し釉皿ですが、茶色の地に白い筋が模様として入っていますよね。この白い筋は職人が指で釉薬を塗ったデザインのものなのです。
小野さん そして鉄釉灰釉掛け分け皿のほうですが、かけらなので非常にわかりにくいのですが、これはお皿の底の部分です。表に見えているのは鉄釉の茶色ですよね。でも下から裏の面を見てください。
小野さん これは外側の色と内側の色を塗り分けているデザインなのです。かぶいているというか、ひょうげているというか。とにかく、そうした斬新なデザインのものを発注した城主がいたということです。