43 鐙(あぶみ) 渡邉又兵衛寄進
44 桶狭間合戦討死者書上(かきあげ)
いずれも名古屋市・長福寺蔵
【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第2章 清須城と桶狭間合戦(蓬左文庫第一室西側)
展示番号 43,44番
第2章 清須城と桶狭間合戦(蓬左文庫第一室西側)
展示番号 43,44番
この文書は初公開です。
これは、桶狭間にある今川義元の供養のお寺長福寺に伝わった合戦戦死者の書上(かきあげ)です。
義元の甥にあたる久野氏忠を筆頭に、井伊直盛、松井宗信など46名(内一人抹消)などの、戦死者の武将名が記されています。
おいでよ天下人の城展
あ!大河ドラマ「おんな城主直虎」で井伊直盛が桶狭間合戦で、戦死するシーンを覚えています。
原さん
文書には、総勢2753人が「戦死」したと記入されています。それに対し織田方の戦死者も990人余りとされています。しかし『信長公記』では信長勢は2000人と書いてありましたので、信長勢の半数近くが討死したことになります。
おいでよ天下人の城展
信長勢は、相当追い詰められていたということですよね。
原さん
ここで興味深いのは織田方の戦死者の追記で、戦死者の内272人は「近江国佐々木方」から加勢と記されていることであります。近江と言えば当時の六角氏からの加勢があったということになりますが、加勢があったということは織田と同盟を結んでいたことも考えられます。ただし、佐々木方援軍の記録はこの史料以外では確認できないので、あくまで推測ということになりますが。
おいでよ天下人の城展
六角氏と同盟を結んでいたというのは意外です!
原さん
この「六角氏の同盟」があったと仮定すれば、桶狭間の戦いは今川義元の上洛戦という見方が違うということになりますね。桶狭間の合戦は、織田・六角連合軍と今川・松平連合軍の戦いということになります。
おいでよ天下人の城展
なるほど。研究が進めば歴史が変わることもあるかもしれませんね。そして、その六角氏の援軍を討ち取った「もの」がこの鐙(あぶみ)なんですね。
鐙とは、馬に乗る者が足をかけて身体の安定を保つためのもので,〈あしふみ〉からきた名称。足を掛ける部分を輪につくった輪あぶみと,足先の覆いをつけた壺あぶみとがある。(世界大百科事典から)
原さん
今川の武将・渡邉玄蕃が信長の援軍としてかけつけた六角氏の武将を討ち取って収奪したものとして寄進された鐙(あぶみ)です。
おいでよ天下人の城展
戦死者書上にある六角氏援軍の記事と合致しますね。
原さん
その信憑性については慎重に評価していく必要がありますが、六角氏援軍を示唆する興味深い史料です。
次は【45】脇指 銘 吉光 亀王丸 号 蜘蛛切丸 信長が戦勝祈願で熱田神宮に奉納した一振り
【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第2章 清須城と桶狭間合戦(蓬左文庫第一室西側)
展示番号 43,44番
第2章 清須城と桶狭間合戦(蓬左文庫第一室西側)
展示番号 43,44番