越前宰相(えちぜんさいしょう)結城秀康宛(慶長七年)霜月十五日 徳川美術館蔵 後期(8/16~)のみ
第2章 巨大城郭の時代 (六)家康の城(本館7室1)
展示番号155
なかなか面白い城にまつわる資料です。平成10年に徳川美術館に寄贈を受けた時には、呼び名を間違えて伝わっていました。
越前宰相を福井藩初代の結城秀康(1574~1607)ではなく、その後の2代・松平忠直(1595~1650)と取っていたので、忠直が(宰相と呼ばれる)「参議」に叙任された元和元年(1616)以降のものだと考えられていました。
しかし、再調査したところ、慶長七年(1602)に将軍徳川秀忠から忠直の父の結城秀康に宛てた書状とわかりました。
書状の現代語訳(原さん訳)
終わりにある「大久保相模」のことをそれまでは読み間違えていて、正しくは失脚(1614年)前の大久保忠隣ということになることが分かったからです。1616年以降の書状ではなかったのです。
さらに、十一月(霜月)十五日に金沢でなにが起きたかを考えると、慶長七年(1602年)に絞り込むことができるのです。
慶長七年に雷火で金沢城の天守が焼け落ちているんですね。
天守炎上!火薬庫大爆発!金沢おわた
事件から百年近く後の記録(「三壺記」)ですけれど、この落雷で、天守が炎上し、その火が大台所に延焼して、本丸の「御新宅」すなわち本丸御殿も全焼。さらにどういうわけか火の粉が散って、鉄砲の丸薬蔵、つまり火薬庫に引火して大爆発を起こし、弾き飛ばされた人間が三階建ての櫓の屋根の上にくの字に折り重なるように引っかかるなど多数の死傷者を出したというくらいの大爆発だったのです。
金沢城はこの時に天守が燃えて無くなりました。
重要なのはこのことを金沢藩ではなくて、隣の福井藩から将軍に報告が行ってるとういことです。
わずか2週間で福井から江戸へ報告
下手したらこの情報は金沢藩が報告するよりも早く将軍のもとに届いてる可能性があるのです。
この事故は十月三十日(晦日)だったと1997年に発表された研究で明らかになっています。そしてこの書状は11月15日と、2週間そこそこで江戸の秀忠のもとに届けられたという注目すべき史実が浮かび上がります。
よく隣国の大名はその周囲の外様大名を監視してたって言われますけど、まさに福井藩の結城秀康は金沢城の落雷の事を、ちゃんと真っ先に報告しているわけですね。
さて、これ以降、金沢城には天守が建てられず、御三階櫓というのに変えられています。
一般には徳川家に対して遠慮を示したと解釈されていますが、想像をたくましくするなら、先に将軍家に知られたんで、もうバツが悪いんで、嫌疑をかけられるのを恐れて、金沢城では天守を建てなかったんじゃないかという風にも考えられないでしょうか。
いち早く、城に何かの被害が生じたということが遠方に報告されたという、城にまつわる非常に珍しい書状です。
次は【156】大野城図(修築普請届図控)千田先生がどうしても見たかった金森長近が造った越前大野城とはです。
参考:原史彦「新出史料「前田利長書状堀秀治宛」「堀家文書」「徳川秀忠書状越前宰相(結城秀康)宛」について」『金鯱叢書』(2011年、徳川黎明会)
第2章 巨大城郭の時代 (六)家康の城(本館7室1)
展示番号155