真田信繁自筆書状 小山田壱岐守(茂誠)宛 二月八日 個人蔵 後期(8/16から)
第5章 東海の要衝(本館7室2)
1・名古屋築城
展示番号170番
真田信繁(真田幸村)が九度山幽閉中に姉・村松殿の夫・小山田茂誠に宛てた自筆書状です。
新年の祝儀に鮭を贈られたことに対して礼を述べるとともに、自分はみすぼらしい姿になっていること、どこからも便りが無いことなどを書いています。
自分は歯が抜け、黒い髭はなく白い髭ばかりになったと老いへの嘆きも吐露していて、幽閉されたまま老いていくことに対する素直な心情が判る貴重な自筆書状です。
こちらは大正3年(1914)を最後に行方が判らなくなっていたが、平成28年(2016)に再発見され、個人の方よりお借りし展示いたします。
次は【171,172】大坂真田丸図 、黒本尊縁起絵巻 大坂の陣で家康をピンチから救った黒本尊様
「真田丸」時代考証者が説明する書状の内容とは
この書状に関しては、8月11日に徳川美術館にて記念講演をされる、昨年の大河『真田丸』で時代考証をされた丸島和洋先生から、寄稿頂きました!
【翻刻】(追而書部分)返々、おほしめしより御飛札忝候、久々か様之住居ニて候へ者、何かたよりも見舞便状ニもあつかり候ハんとも不存候、御手前なと御心中更々可有御志等候とも不存候、神そく其分ニ候、切々人ヲ御越候儀御無用にて候、御用之事も候ハゝ無隔心可申入候、兎角々々年之より申候事口惜候、我々なとも去年より俄ニとしより、事之外病者ニ成申候、はなともぬけ申候、ひけなともくろきハあまり無之候、今一度遂面上度存候、以上、(本文部分)遠路預御飛札候、如仰、当はる御慶不可有尽期、仍為御祝儀鮭二尺、被懸御意候、忝次第候、乍去、其許万方御手透も有間敷処、御隔心之至、却而迷惑いたし候、然ニ其方何も相 替儀無御座候由、市右物語具承致満足候、此方ニおゐても無事ニ御座候、うそかちけたる体、市右物語可被申候間、委申入候ニも不及候、もはや懸御目候事有間敷候哉、いつもいつも申つくし候、猶市右可被申候、恐々謹言、(署名部分) 真好白二月八日 信繁(花押)壱岐守殿 御報
【現代語訳】遠いところ、ご書状をお送りくださりました。
仰るように、新春の喜びは、言い尽くせません。そこで(新年の)祝儀として鮭二尺をお送りいただきました。かたじけないことです。
しかしながら、そちらも万事お暇などないところに、よそよそしい限りで、かえって戸惑っております。
しかしそちらは何も変わりはないとのこと、市右衛門の話を詳しく聞き、満足しております。
こちらも無事に過ごしております。
みすぼらしいていたらくは、市右衛門が話してくれるでしょうから、詳しくここに書くには及ばないでしょう。
もはや御目にかかることはないのでしょうね。いつもいつもこれを言うばかりです。
なお、市右衛門が伝えてくれるでしょう。
恐々謹言。
(追伸)
返す返す、ご厚情による書状、かたじけなく思います。長々とこのような住まいにおりますから、どこからも見舞いや便りをいただけるとは思っていませんでした。
貴方様の御心にも、さらにお志があるなどと、考えてもみませんでした。
親族はそのようなものだと思っていたのです。
折に触れて使者をお遣わしになることは、御無用に願います。
(私のほうから)お願いしたいことがあれば、遠慮なく申し入れます。兎にも角にも歳を取るというのは口惜しいことです。私なんぞは去年から急に老け込んで、ことのほか病気がちになりました。歯もぬけてしまい、髭も黒いところはあまりありません。今一度、お目にかかりたく存じます。以上。
解釈:藤麿呂
信繁が九度山にいた最後の年に書かれた可能性が高い
この書状は真田信繁が姉村松殿の夫小山田茂誠(壱岐守)に出したものである。信繁は高野山配流後、九度山で頭を丸め、「好白」と号していた。茂誠の苗字(姓)の記載がないのは、彼が真田苗字の使用を昌幸から許され、真田一門と処遇されていたためである。当時、一門同士で書状を出す際には、苗字を省略する慣例があった。
一般に、大坂冬の陣後に出されたものとされる。しかし影写本で花押型を確認すると、九度山配流、それも慶長16年の父昌幸死去をきっかけに使われたものである。大坂冬の陣後の花押型は、これとはまったく異なるものに変化するから、大坂入城時に花押を改めた可能性が高い(残念ながら、冬の陣最中の発給文書は残されていない)。
また、「長々とこのような住まいにおりますから、と゛こからも見舞いや便りをいたた゛けるとは思っていませんて゛した」という点からも、大坂冬の陣後という通説が誤りであることがわかる。信繁の大坂入城は慶長19年10月。この書状を翌年2月のものとすると、「長々とこのような住まいにおります」という記述との整合性が付かない。また、冬の陣後に信繁は、何度か甥の小山田之知(茂誠と村松殿の嫡男)と会う機会を得たが、「取り込んでいてなかなか落ち着いて話が出来ない」とこぼしており、この点からも九度山時代とみるべきである。
便りが絶えがちな様子も垣間見える。
慶長16年6月の昌幸死後、信繁は九度山にまで従ってきた家臣の多くに暇を出し、上田に帰した。連絡が途絶えがちになったのはそのためだろう。これらを勘案すると、本書状は信繁が九度山にいた最後の年、慶長19年2月のものである可能性が高い。
この書状は、追而書にある「兎角々々年之より申候事口惜候、我々なとも去年より俄ニとしより、事之外病者ニ成申候、はなともぬけ申候、ひけなともくろきハあまり無之候」という部分が著名である。「兎にも角にも歳を取るというのは口惜しいことです。私なんぞ゛は去年から急に老け込んで、ことのほか病気がちになりました。歯もぬけてしまい、髭も黒いところはあまりありません」という文面からは、彼の複雑な心情を垣間見ることができるだろう。
慶應義塾大学文学部非常勤講師 立教大学文学部兼任講師 丸島和洋
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第5章 東海の要衝(本館7室2)
1・名古屋築城
展示番号170番