102 羽柴秀吉朱印状 称名寺宛 天正十二年十月廿八日 個人蔵
第2章 巨大城郭の時代 四 金箔瓦の荘厳(本館7室1)
(二)大坂城
展示番号102
羽柴秀吉から近江国長浜称名寺へ宛てた十月二十八日付書状。
内容は、書状・柯餅一籠・山葵が到来しました。何れも珍重なものです、その懇志を喜んでいます、(伊勢国の)桑名の戦場に関しては軍勢を押し詰めて火を放ち、付城(敵の城を攻める時にそれと相対して築く城)を申し付けました、すぐに手が空くでしょう。という内容である。
ここでいう桑名の戦場とは、秀吉と徳川家康・織田信雄が争った小牧・長久手の戦いに関するもので、尾張国に比して伊勢国の戦況は当初から秀吉側に有利に展開していたが、天正11年(1584年)11月には桑名において秀吉と信雄との講話が成立した。
この講話の前10月28日付秀吉発給文書には、
丹羽長秀宛 滝川雄利の伊勢国浜田城を攻囲付城攻略次第に大阪へ帰城を通達(溝江文書)
脇坂安治宛 桑名まで進撃攻略したことを通達(脇坂文書)
などがあり、称名寺宛本状は伊勢国・浜田城表に秀吉が在陣し発給したものと考えられ、桑名表へ押し詰めて放火、付城などの攻撃を指示したこと、すぐに手が空くでしょうという言葉は、あるいは戦が終わることを予期してのものだったかもしれない。
なお、称名寺は長浜にある浄土真宗寺院と思われ、住持の性慶は、本能寺の変時に長浜城にいた秀吉の家族を岐阜へ避難させた功績で、秀吉との親交があつかった。
まとめ:藤麿呂
次は【103】刀 銘 本作長義・・・(以下58字略) 秀吉の小田原城攻めとの関係のある名刀 へ続く。
第2章 巨大城郭の時代 四 金箔瓦の荘厳(本館7室1)
(二)大坂城
展示番号102