7/15~9/10開催の企画展「天下人の城」(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)について徹底リポート!

「天下人の城」〜徳川美術館応援団〜

展示紹介

【102】羽柴秀吉書状 称名寺宛 小牧・長久手だけでなく伊勢方面にも目を配る秀吉の「天下人」たる視野の広さ

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102 羽柴秀吉朱印状 称名寺宛 天正十二年十月廿八日 個人蔵

【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第2章 巨大城郭の時代  四 金箔瓦の荘厳(本館7室1)
(二)大坂城
展示番号102

羽柴秀吉から近江国長浜称名寺へ宛てた十月二十八日付書状。

内容は、書状・柯餅一籠・山葵が到来しました。何れも珍重なものです、その懇志を喜んでいます、(伊勢国の)桑名の戦場に関しては軍勢を押し詰めて火を放ち、付城(敵の城を攻める時にそれと相対して築く城)を申し付けました、すぐに手が空くでしょう。という内容である。

ここでいう桑名の戦場とは、秀吉と徳川家康・織田信雄が争った小牧・長久手の戦いに関するもので、尾張国に比して伊勢国の戦況は当初から秀吉側に有利に展開していたが、天正11年(1584年)11月には桑名において秀吉と信雄との講話が成立した。

この講話の前10月28日付秀吉発給文書には、

丹羽長秀宛 滝川雄利の伊勢国浜田城を攻囲付城攻略次第に大阪へ帰城を通達(溝江文書)
脇坂安治宛 桑名まで進撃攻略したことを通達(脇坂文書)

などがあり、称名寺宛本状は伊勢国・浜田城表に秀吉が在陣し発給したものと考えられ、桑名表へ押し詰めて放火、付城などの攻撃を指示したこと、すぐに手が空くでしょうという言葉は、あるいは戦が終わることを予期してのものだったかもしれない。
なお、称名寺は長浜にある浄土真宗寺院と思われ、住持の性慶は、本能寺の変時に長浜城にいた秀吉の家族を岐阜へ避難させた功績で、秀吉との親交があつかった。

原さん
長久手の戦いは森長可が狙撃されて討死した辺りから徳川軍有利となり、池田恒興、池田元助も討ち取られ、やがて恒興・森勢は潰滅、徳川軍の勝利に終わったが、それは長久手の戦いだけで、全体的には秀吉軍の戦略的勝利であり、秀吉は信雄の領地を奪って勢いを増し、家康が秀吉に人質を差し出したことをもって服従の姿勢を見せた、徳川の負け戦でした。

まとめ:藤麿呂

次は【103】刀 銘 本作長義・・・(以下58字略) 秀吉の小田原城攻めとの関係のある名刀 へ続く。

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第2章 巨大城郭の時代  四 金箔瓦の荘厳(本館7室1)
(二)大坂城
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