當寺御開山御真筆 金西寺蔵(豊橋市)8/8-9/10
第2章 巨大城郭の時代 四 金箔瓦の荘厳(本館7室1)
(一)安土城
展示番号95
これは江湖散人集雲守藤が天正10年の初秋(7月ごろ)に記したもので、本能寺の変が6月2日なので1か月と少し後に書かれたものになるわけですが、織田信長を激しく酷評していることで今年はじめに発表されて話題になりました。 基本的には仏教的なことが書いてあるんですが、おもしろいのは冒頭を飾る漢詩です。
本能寺で討たれた信長と仏教界の関係が書いてあったり、安土城や信長への評価がストレートに表現されています。
さきほどの【87】織田信長書状 おね宛で、信長は秀吉のことを「禿ネズミ」と言っていますが、自分は「黒ネズミ」と言われているあたりも面白いですよね。
次は四 金箔瓦の荘厳(本館7室1) (二)大坂城【96】豊臣秀吉木像
漢詩に込められた信長と安土城への呪い
読売新聞の連載「探訪 東海百城」でこの漢詩について紹介されていますので、引用します。
1582年6月の本能寺の変の翌月に、高僧が織田信長を「黒鼠」などと痛烈に批判した漢詩が、愛知県豊橋市の金西寺で見つかった。今回は、僧侶から見た信長像を考えてみた。
金西寺にあった漢詩は、京都五山のひとつ東福寺のトップ集雲守藤が書いたとされる。文書を調べた豊橋創造大学の島田大助・教授(日本近世文学)によると、この漢詩では、信長を「黒鼠の清盛の再来」とし、平安時代に武士ながら朝廷を上回る平家政権をつくった平清盛と同じ「悪い黒ネズミ」だと非難。さらに仏教用語で欲望にまみれたものを意味する「六天の魔王」とも表現した。信長は仏教、天皇、公家ら名家をないがしろにする破壊者で、逆に信長を倒した明智光秀を勇士としている。
島田さんが調べたところ、この漢詩には、下敷きとした別の漢詩があることが分かった。
それは、美濃出身で岐阜城下にある瑞龍寺僧侶の南化玄興の漢詩。信長の依頼を受けて安土城(滋賀県)完成のお祝いとして1579年に作ったもので、「六十扶桑第一の山」(60州からなる日本で1番の山)などと安土城を絶賛する内容となっている。信長は南化に100両の褒美を与えたというほどの出来らしい。
では、集雲は信長をたたえた南化の漢詩を、意地悪く改変したのだろうか。
「実は、南化も詩の中にとんでもない呪いをかけていたのです」と島田さんは説明し、「宮高うして阿房殿似も大なり」(安土城は阿房殿よりも大きい)とある漢詩の「阿房殿」を指さした。
阿房殿は、初めて「中華統一」した秦の始皇帝の宮殿のことだが、その後炎上している。「天下統一」の象徴と考えれば、信長にふさわしいたとえだが、後の歴史を考えると「とてつもなく不吉な言葉で、建物の完成のときに使う言葉ではありません」と島田さんは指摘する。
信長を快く思わない京都の僧侶や公家らインテリは、心中で「にやり」としながら南化の漢詩を絶賛し、信長をはじめ武士たちは理解できないまま同じように称賛したのだろうか。
では、南化はなぜこんな漢詩を書いたのか。実は、南化は信長のライバル武田氏の甲斐国(山梨県)で高僧となっている。師匠は美濃出身の快川紹喜。快川は、斎藤道三の息子・義龍と対立して、1561年に甲斐国へ逃げてきた。信長が美濃を占拠する6年前のことである。
快川は武田信玄に厚遇され、恵林寺(山梨県甲州市)の住職となると、多くの門下生が全国から集まってきた。南化はその一人だった。
武田についた快川に師事した南化が、信長におくった漢詩だったことになる。快川は、武田氏滅亡とともに1582年、信長に寺とともに焼き殺された。このとき、「心頭滅却すれば火も自ら涼し」との言葉を残したという逸話で知られる。
寺院のネットワークは当時、地域の“壁”などやすやすと乗り越えたという。「漢詩は文学作品と見られ、歴史を探る史料としては見過ごされがちだが、重要な情報が詰まっている可能性がある」と島田さん。
当時のインテリ層から憎まれた信長。この連載で紹介した光秀が京都の足利幕府の重臣だったとの説に従えば、知識人だった光秀のもとにはそうした声がたくさん届いていたのだろう。だが、決起した光秀のもとに、有力な軍勢が集うことはなかった。
これで信長の安土城は終わり、秀吉へと「天下人」はリレーされます。
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第2章 巨大城郭の時代 四 金箔瓦の荘厳(本館7室1)
(一)安土城
展示番号95