7/15~9/10開催の企画展「天下人の城」(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)について徹底リポート!

「天下人の城」〜徳川美術館応援団〜

展示紹介

【71】【72】徳川家康三方ヶ原戦役画像 しかみ像は三方ヶ原と関係なし?

更新日:

【71】【72】徳川家康三方ヶ原戦役画像 (前期は原本、後期は模本)

【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第1章 天下布武への道
三・小牧山城・岐阜城と天下布武(蓬左文庫第二室)
展示番号71、72番
おいでよ天下人の城展
夏に展示される、おなじみの「しかみ像」ですね!「三方ヶ原合戦後、自分の慢心で多くの家臣を討ち死にさせてしまったことに対し、自らを戒め、生涯忘れないために惨めな姿を描かせて座右に置いたとされた」というものですよね。
原さん
………。
おいでよ天下人の城展
あれ、これまで滑らかだった口調が………読売新聞の記事に説明していただきます。

読売新聞の天下人の城家康編より一部引用します。

我慢強い家康像として、近年、テレビドラマやマンガなどだけでなく、学術書にも取り上げられているのが、徳川美術館(名古屋市)が所蔵する「徳川家康三方ヶ原戦役画像」、通称「しかみ像」だ。

1572年に武田信玄に三方原で大敗した家康は、絵師を呼び、あえて顔をしかめた姿を描かせて、自らへの戒めとして生涯座右にした、とされている。ところが、今年(*2015年)8月に同美術館で開かれた講演会で、学芸員の原史彦さんがこの常識を覆す新説を公表した。

それは、三方原の戦い後に家康が自ら描かせたものではない――という衝撃的な説である。

原さんが由緒を改めて確認したところ、この画像は、江戸時代中期の尾張徳川家9代の徳川宗睦むねちか(1733~99年)の嫡男の妻で紀伊徳川家から嫁いだ従姫が1780年に持ってきた嫁入り道具だったことが判明したのだ。

家康の画像とは伝わっていたため、従姫の死後の1805年に、尾張家が家康ゆかりの物を収める「御清御長持」に加えられた。ただ、江戸時代にはこの画像が三方原と結びつけられてはいなかった。

三方原の敗戦の図と初めて紹介されたのは、1935年(昭和10年)に徳川美術館が開館した翌年1月のこと。その際は、家康が自ら描かせたのではなく、尾張家初代の徳川義直が父親の苦難を忘れないように描かせたとされていた。この話を地元新聞での対談で語ったのが、美術館を創設した19代の徳川義親氏(1886~1976年)だったため、その後、三方ヶ原戦役画像として定着。72年に刊行された収蔵品図録で、義直ではなく家康が自ら描かせ、生涯座右を離さなかったと記されたことで、現在の「しかみ像」のイメージが固まったという。

原さんは「義親氏は厳密な歴史性からこの逸話を持ち出したのではなく、開館したばかりの美術館を宣伝するキャッチコピーのような感じで、サービス精神から言ったのではないか。それがいつの間にか様々なメディアで流れることで定説化していった」と話す。表現方法などから、江戸時代に描かれたもので、その表情も悔しがっているのではなく、当時よくあった、仏教的な怒りの表情だろうと原さんは推測する。

おいでよ天下人の城展
真偽はともかく、的確に德川家康の気質を表わしたこの「作られた伝承」はロマンがあって大好きです。そしてこういったエピソードが生まれ広まること自体がすでにこの絵の歴史であり、多くの人に愛されている証拠ではないでしょうか。

次は【73】三州根小屋(野田)城図 三方ヶ原合戦後に武田信玄が狙撃された伝承のある城へ。

【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第1章 天下布武への道
三・小牧山城・岐阜城と天下布武(蓬左文庫第二室)
展示番号71、72番

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