三州根小屋(野田)城図(「極秘国城図」七十一) 松江歴史館蔵 展示:7月15日~8月13日
第1章 天下布武への道
三・小牧山城・岐阜城と天下布武(蓬左文庫第二室)
展示番号73番
信玄と野田城について
野田城は武田信玄が亡くなる直前、最後に落城させた城として知られています。
信長包囲網に参加すべく西上作戦を発動させていた信玄は、元亀三年十二月、三方ヶ原で家康を破った翌一月に東三河の要所でもある野田城(城主・菅沼定盈=さだみつ)を三万もの兵で包囲します。
野田城は規模こそ小さな城だったのですがその守りは堅く、なかなか陥落させることができませんでした。
そのため信玄はわざわざ甲州より金堀衆を呼び寄せ、「水の手切り」(水脈を断ち切り、井戸を枯らす)をおこない、ようやくのことで城を開城降伏させています。
その後、徳川と武田の人質交換で定盈は解放され、長篠の戦いにおいては鳶ヶ巣山奇襲隊の一員として参加しました。
またこの野田城の戦いには、籠城が長引くなか、松村芳休(ほうきゅう)の奏でる笛の音色に聞き惚れてしまった信玄は本陣を出たところを定盈の家臣、鳥居三左衛門に狙撃され、信玄はその傷がもとで亡くなったという伝承が残されています。定説では信玄の死因は病死で、野田城攻撃直後に信玄が亡くなっていることからこの伝承が生まれたようです。(黒澤明監督の映画「影武者」にそのエピソードが使われています)
まとめ:966
次は【74】【75】長篠合戦図屏風 教科書に載っているおなじみの作品へ。
第1章 天下布武への道
三・小牧山城・岐阜城と天下布武(蓬左文庫第二室)
展示番号73番