脇指 銘 吉光 亀王丸 号 蜘蛛切丸 熱田神宮蔵
【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第1章 天下布武への道
二・清須城と桶狭間合戦(蓬左文庫第一室西側)展示番号 45番
第1章 天下布武への道
二・清須城と桶狭間合戦(蓬左文庫第一室西側)展示番号 45番
原さん
織田信長が、桶狭間合戦が行われた永禄3年(1560)に、戦勝祈願として熱田神宮に奉納したと伝わる脇指(わきざし)です。一説では源氏重代の名刀とも言われています。
おいでよ天下人の城展
蜘蛛切りという名前がついているのですね。
原さん
「蜘蛛切丸」の名前の由来は、持ち主が杉の木の下で眠っていた時、毒蜘蛛に襲われた際に、この脇差がひとりでに鞘から抜け出て毒蜘蛛を斬りつけ、その難を助けたという伝承によります。ただ、他の刀剣にも同様の逸話を持つものがあり、この脇差もそれらの類話によって命名されたものと思われます。
おいでよ天下人の城展
銘の「吉光」とは?
原さん
作者とされる吉光は、山城国(京都府)の名門・粟田口派の名工のひとりです。藤四郎と通称され、相模国(相州、神奈川県)の新藤五国光と並んで短刀の名手として知られています。吉光の刀剣は、古来より品格の高いものとして愛されてきましたが、江戸時代には、相州正宗、越中(富山県)の郷義弘と共に「天下三作」と称せられ、珍重されました。出品番号101番の鯰尾藤四郎は、吉光作の由緒ある刀剣として、有名なもののひとつです。
おいでよ天下人の城展
鯰尾は最近、名古屋市水族館と「なまず」のコラボ展示をしていましたね。
原さん
今まで、吉光の刀剣で長いものは、元太閤秀吉の蔵刀で、駿府御分物として尾張徳川家に伝わり、尾張家から明治天皇に献上され現存も御物となっている、名物の「一期一振」という太刀のみであるとされてきましたが、最近になって、犬山城主成瀬家に伝来した、吉光の在銘(製作時に入れた銘が残っていること)の小太刀が知られるようになりました。
おいでよ天下人の城展
どんな特徴がああるのでしょうか。
原さん
この蜘蛛切丸は、吉光の作とすると、身幅のわりに寸が長く大振りな姿をしています。吉光の作刀は、尋常な姿のものから、大振りなもの、小振りなもの、身幅の極端に広いものなど色々な姿のものが見られますが、これは、吉光の師とも父親とも伝わる粟田口国吉に見られる傾向で、吉光は国吉の作刀の姿における傾向を受け継いでいるものと考えられます。また、この蜘蛛切丸に見られるような、棟側に寄った樋(彫物)は、吉光だけでなく、粟田口派に共通して見られる特徴です。
信長の桶狭間必勝祈願の刀と敗者の義元が持っていた刀が450年目で初めて?並ぶ
原さん
さて今回、戦勝祈願として信長が奉納したとされる蜘蛛切丸と、討たれた側の佩刀であった義元左文字(出品番号46番)が同時に展示されるわけですが、この組合せで展示されるのは今回が初かもしれないとのこと…相反する刀が同時に出された時にいったいどういう共鳴反応を起こすのか…昔、とある美術館で討った側と討たれた側の刀を隣同士で展示したところ、毎晩、誰もいないのに警報機が鳴り響いたなんてことが実際にありましたが…。
おいでよ天下人の城展
夜中に、信長と義元が仲良く語らうというシーンが見られるのでしょうか?!
次は【46】刀 名物 義元左文字(宗三左文字)信長が討ち取った義元から奪った記念に名前を彫った愛刀
【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第1章 天下布武への道
二・清須城と桶狭間合戦(蓬左文庫第一室西側)展示番号 45番
第1章 天下布武への道
二・清須城と桶狭間合戦(蓬左文庫第一室西側)展示番号 45番