こちらは「豊臣秀吉朱印状 木全(きまた)又左衛門尉(忠澄)・滝川彦次郎(忠征=ただゆき)宛 吉田逸言模写豊臣秀吉」という文書をご紹介します。後期(8/16~)のみ
第2章 巨大城郭の時代 (6)家康の城(本館7室1) 展示番号 146番
名古屋城の普請奉行として築城にあたっていた木全親子に宛てた書状で、最近確認されたものだそうです。
二人は名字が違いますが、親子です。
木全家は現在の一宮市にもある木全という地域出身の土豪(地侍)でした。
ちなみに息子の名字が違う理由は、木全家は滝川(瀧川)一益に仕えていて、滝川姓を息子が賜ったため。
それで息子は「滝川(瀧川)彦次郎(忠征)」となりました。
(滝川一益は織田信長の重臣で、いわゆる関東方面軍の軍団長でした。94番の書状も一益宛の秀吉の書状です)
豊臣秀吉が天下の時代、家康が関東に移された時期、木全親子は豊臣家の直轄領「蔵入地」の支配を任されていたそうです。
秀吉の直轄領が遠江(静岡県西部)に1万~1.2万石ほどあったことが、この書状からわかります。
ちなみに「豊臣家の蔵入地」についての資料は全国でも少ないのです。この書状は、木全さんのご子孫が持っていた貴重なものです。
ちなみに息子の滝川彦次郎は、豊臣家に仕えて伏見城(京都府)の普請奉行(築城の担当者)もつとめていました。
技術があれば、たとえ敵方を味方しても自軍に引き入れ、優遇されるものなんですね。
熊本城修復の問題は職人不足が深刻
少し話はずれますが、この書状につながることが、6月18日、安土文芸の里(滋賀県)にて行われた、講演会「安土城から熊本城へ ~織豊城郭の軌跡~」でも取り上げられたのでご紹介します。
講演会の2部は、我らが天下人の城展応援団No.1会員の千田嘉博先生、城郭ライターで編集者の萩原さちこさん、熊本城調査研究センターの鶴嶋俊彦さんの3名のパネルディスカッションでした。
その時、鶴嶋さんが、現時点での熊本城の復旧の現状を説明してくれました。
お話を聞いて石垣の現状とその修復にお金や時間がどれくらいかかるか、私たちには計り知れない時間と労力であることを再認識しました。
特に千田先生が
と話していたのが印象に残っています。
今は石工職人が少なく、修復に当たれる職人が不足しており、それが一番の問題なのだそうです。
織豊城郭期の時代は各大名が自分達で築城の技術者、技能者を確保していました。
まさにこの書状のようにたとえ敵であっても、腕に覚えるのある技術があれば出世までできることがあるかもしれないわけです。
しかしながらすべての大名が素晴らしい技術者を雇い入れ出来た訳ではなかったのではないでしょう。
武力がある、お金があるだけは技術者を囲い込むことは出来ないから、腕のいい技術者は喉から手が出るほど欲しかった。
だから、家康は滝川彦次郎を許して名古屋城の築城に当たらせたのかもしれません。
現代だったら大手建築会社の社長だったかも?加藤清正の築城スキルの高さ
またこの講演で、千田先生は大工棟梁・善蔵(ぜんぞう)が語った「御大工棟梁善蔵(より)聞覚控」という文書を紹介しました。
善蔵さんが安土や大坂の城を見に行った時の記録で、「加藤清正は築城中も何度も何度も現場に足を運び、職人に対して細かいところに指示を出し、手を抜かない」と、彼の仕事ぶりを絶賛していました。
信長も過去、安土築城建築時には現場に足を運んではいますが、職人たちには信長の登場は恐怖にしか映らなかったのかもしれません。
勝手な妄想ですが、同じ現場監督でも清正は現場の話を良く聞いて、たまにはお酒とか飲んだりして、マンパワーの士気を上げていたのではないかなと思います。
熊本城調査研究センターの鶴嶋さんは、「清正というと猛将で豪快なイメージがあるけど、石垣を積む技術などは算数や数学が得意な人で空間認識ができないとうまく石をつめない。
清正は建築や設計スキルに長けた人だ」と話しました。
また清正の強みは建築スキルだけでなく、職人を囲っておくチームづくり、効率的な城の作り方などのノウハウがあり、城づくりにおける複合的なスキルがあったそうです。現代の建築会社みたいな感じだったのかもしれません。
とはいえ昔でも腕のいい職人を見つけるのは難しかったのに、現代はそもそもの職人が少なく人材の確保は難しいとの事です。
熊本城だけではなく、名古屋城など修復作業が必要なお城は全国に沢山あります。
鶴嶋さんは外国のようにマイスター制度を導入したりして、職人さんの地位向上や、お給料面などでもっと厚遇しないと今後の人材は減るばかりと問題提起していました。
その話を聞いて、日本の伝統技術の継承はいかに難しいかと感じました。
この書状にまわわる逸話を知ると、現代でも木全又左衛門尉や滝川彦次郎のような凄腕の技術者がいたら、どんなにいいだろう・・・と思いますね。
筆者:にの
第2章 巨大城郭の時代 (6)家康の城(本館7室1) 展示番号 146番
応援団コメント
この滝川忠征に限らず、織田秀信の家臣で西軍であった百々綱家という人物も、築城の名手と言われていて、関ヶ原の後、(*岐阜城主で信長の孫の三法師の織田)秀信の改易に伴って一度は牢人になりますが、築城の腕を買われて山内一豊の家臣となって山内の高知城や、天下普請であった江戸城、丹波篠山城の築城に従事しています。
また、山内家には同時に石工集団の穴太(あのう)衆も抱えられていて、近江出身である綱家との繋がりがあった可能性もあります。
たしかな証拠が残っているワケではないですが、築城の名手と職能集団との繋がりがあったとするなら、有能な人物を簡単に処罰せず、抱えてしまう事で、更にそれに繋がる技量を持った家臣や職能集団をも取り込めるという狙いがあったんじゃないかと考えます。(By るーちん)