第5章 東海の要衝(本館7室②)
(一) 名古屋築城
展示番号166番
この図は、名古屋城の天下普請の時20の大名がそれぞれどんな持ち場であったかなど、初期の築城計画図面で変更計画が書かれたものです。
名古屋城の当初の築城計画図は御深井丸の地盤の弱さから、計画された天守西側の小天守を設けず、天守台西側を開口し、御深井丸と地続きとする案に変更を余儀なくされています。
天守台まわりは少なくとも4回ないし5回の設計変更をしているということが分かっていて、実際名古屋城再建する時にその周りを掘ってみたら、石垣のラインが出てきました。
おそらく当初の設計図をある程度踏襲していたと思われます。
当初、西側に小天守を設ける予定があったったのですが、残念ながら西側の御深井は低湿地で地盤が大変弱いんです。
実際に福島正則が築いた石垣が崩れたり、築いた直後に崩れたという記録がありますから、ある程度の高さ以上にいかなかったのでしょう。現在、水面下から清須櫓までの高さが約6mぐらいありますけど、大天守の西側に小天守に向かう穴が開けられています。
でも、本来だったら6mではなく10数mの高さにする予定でしたが、今の高さに抑えざるを得なくなり、西側に小天守を作ることができなくなった。
それからも様々な設計をしましたが、最終的に今のような堀にして小天守を止め、南側の小天守だけにすることになります。それでも今の南側の小天守は北側から入るようになっていましたけど、当初のプランでは南から入るようになっています。この164番の計画では、小天守はまだ西側を入口とする案となっていますね。
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第5章 東海の要衝(本館7室②)
(一) 名古屋築城
展示番号166番