7/15~9/10開催の企画展「天下人の城」(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)について徹底リポート!

「天下人の城」〜徳川美術館応援団〜

展示紹介

【65,68,69】 織田信長制札 千手堂宛ほか 美濃を制するものは天下を制す 信長の美濃攻略を裏付ける貴重な3点セット

更新日:

65 織田信長制札 千手堂宛 永録十年(1567年)九月
68 斎藤利堯制札 千手堂寺内宛 天正十年(1582年)六月四日
69 羽柴秀吉制札 濃州 千手堂寺内宛 天正十年(1582年)十二月
いずれも個人蔵

【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第1章 天下布武への道 3 小牧山城・岐阜城と天下布武(蓬左文庫第2室)
展示番号 65,68,69番
原さん
この制札は、信長や秀吉が時代の節目で美濃を制したことを裏付ける貴重な史料です。
おいでよ天下人の城展
3枚とも木の板に墨でなにかが書かれています。いわゆる高札ですね。

制札とは

禁制を木札に書いたもの。中世において法令発布や戦乱の際,権力者が申請によって神社や寺院その他の一定地域内での乱暴停止などの禁制を発し,その内容を個条書きにして広く民衆や軍兵に知らせるため,木札に書いて寺社の門前や村落の入口などに掲げた。(世界大百科事典より)

原さん
禁制(きんぜい)は【27】でも説明して、繰り返しですが、禁制とは「戦乱に巻きこまれないように、寺社などに発行された安全保障証」のことです。
おいでよ天下人の城展
禁制が出されているということは戦時体制を意味する、んでしたよね。蓬左文庫で現物を調査した研究者が「一つでも珍しい制札なのに、同じ寺の時代の異なる制札が三つもそろっているのは重要文化財クラス」と驚いたそうですね。

3つの制札が語る、戦国時代のターニングポイント

・【65】永禄十年(1567年) 信長が岐阜城(稲葉山城)を攻略後
・【68】天正十年(1582年)6月 本能寺の変で信長が死んだ2日後
・【69】天正十年(1582年)12月 清須会議後、賤ヶ岳の戦いの直前

おいでよ天下人の城展
それぞれ、なにが起きたのか見ていきましょう。

天下統一への大きな一歩

65 織田信長制札 千手堂宛 永録十年(1567年)九月

原さん
信長が美濃国を手中にした直後に、当時は城下南方郊外にあった千手堂善福(ぜんぷく)寺に宛てた禁制です。信長の美濃攻略はそれまで永禄七年(1564)説もあったのですが、この十年に出されたこの制札に加えて、崇福寺(岐阜市)・多芸(たぎ)庄椿井郷(岐阜県養老町)宛の禁制が確認されたことで、信長の美濃攻略は永禄十年と確定されたのです。信長の歩みを裏付ける上でも非常に貴重な史料です。

信長の美濃攻略(美濃・斎藤氏との戦い)

永録十年(1567年)八月、信長は小牧山城より木曽川を渡り、井ノ口(岐阜)に進軍し、稲葉山城を急襲した。八月十五日、クーデターを起こした斎藤義龍の息子・龍興(たつおき)は長良川を下り、伊勢・長島に退去した。
信長は井ノ口と稲葉山城を旧名により岐阜、岐阜城と改め、小牧山からここに本城を移した。織田信長の領域は尾張・美濃2か国に拡張したのである。この後、信長は伊勢へ侵攻する。
岐阜城を奪った翌月に、あらたな支配者として出したのが、この千手堂への禁制である。

原さん
現存する信長の高札は少なく(10点ほど)、実際に掲げられたあともあり、大変珍しいです。

おいでよ天下人の城展
有名な麒麟(きりん)の花押(サイン)もありますね。

原さん
麒麟は古代中国の想像上の動物で、天下平定の世しか見せないと言われています。この花押を用いたことは、室町将軍足利氏に代わり、自らの実力によって乱れた天下を平定しようとする願望があることを明確にしたもので、信長の天下統一事業にかける意気込みがうかがわれます。

本能寺の変直後のゴタゴタで幻の「斎藤氏復活」

68 斎藤利堯制札 千手堂寺内宛 天正十年(1582年)六月四日

天正十年(1582年)六月二日に、本能寺の変が勃発した。

原さん
68の斎藤利堯(としたか)制札は その直後の六月四日に出されました。加治田城主(岐阜県富加町) 斎藤利堯が岐阜城を占拠し、美濃を支配し千手堂に禁制を出したものです。

おいでよ天下人の城展
斎藤利堯(としたか)?誰ですか?

原さん
斎藤道三の息子です。このとき、岐阜城主だったのは信長(安土城主)ではなく、嫡男の織田信忠(のぶただ)でした。斎藤利堯は信忠の重臣として仕えており、京都に行った信忠の留守を預かっていたのだと思われます。

おいでよ天下人の城展
斎藤氏にとっては美濃を取り返すチャンスと思ったのでしょうか?

原さん
信長に加え、岐阜城主の信忠も死亡し、美濃は混乱状態となります。鎮圧したのが利堯です。
当時、大垣付近に在住していたイエズス会宣教師グレゴリオ・デ・セスペデスの報告によれば、「岐阜において太子の宮殿が掠奪され、諸侯の一人が城を占領したが、いずれに味方するか発表しなかった」(1583年2月13日付ルイス・フロイス書簡)とあり、利堯は織田家と明智光秀との間で中立を保った模様です。

おいでよ天下人の城展
フロイスの言う「太子」が信忠で、「諸侯」が利堯ということですね。

原さん
最近、発見された羽柴秀吉の書状によれば、美濃各地らの武将がそれぞれ自衛の態勢を取り、「反乱」と見られる状況があったようです。本制札はこれを裏付ける史料です。利堯はやってきた秀吉に臣従して岐阜城を明け渡しました。

おいでよ天下人の城展
明らかに光秀に従った勢力もいたようですが、利堯はそこまで前のめりにならずにいたようですね。心の中では「美濃の三日天下」だったのかもしれませんが。

この羽柴秀吉書状については、読売新聞「探訪 東海百城」で紹介されています。一部引用します。

 1582年6月2日の本能寺の変で織田信長と長男の信忠を失った織田家は、同月27日の清須城(愛知県清須市)での会議で次の家督を決める。決まったのは、次男の信雄のぶかつではなく、信忠の3歳の息子、三法師だった。信雄にとって「清須会議」は敗北だったのか。

「実は織田家の跡取りになりたいという最終目的で考えると、信雄にとって清須会議はむしろ成功だったとも言えるのです」と、播磨良紀中京大教授(織豊期研究)は意外な見方をする。

今年7月(*2016年のこと)に播磨さんらが発表した、清須会議の3日前に信雄が秀吉に宛てた書状にそのヒントがあるという。

この頃、秀吉は山崎の戦いで明智光秀を破った信長の三男信孝とともに、岐阜城(岐阜市)付近で、明智方についた美濃の残党を掃討していた。

一方、出遅れた形の信雄は「秀吉の近くに陣を移そうと思ったが、適切な場所がわからないので、まずは北方(岐阜県北方町か)に陣を置いた。そちらで良きように決めていただき連絡をください。連絡があり次第、行動する」と秀吉に連絡を求める書状を送った。花押かおう(サイン)が乾かないうちに折りたたんだために墨が写った跡もあり、信雄が焦っていたことがうかがわれる。(後略)

*斎藤利堯 斎藤道三の子で、永録年間に織田信長に降ったとみられ斎藤利治に、加治田城の留守居を要請され、天正三年には信長より美濃国方県郡福光郷一円などを宛がわれていた。

秀吉の下克上が始まる!

69 羽柴秀吉制札 濃州 千手堂寺内宛 天正十年(1582年)十二月

おいでよ天下人の城展
前の制札からわずか半年ですね。

原さん
羽柴秀吉が美濃の千手堂周辺を抑えていたことがわかります。現存する高札は羽柴秀吉19点、斎藤利堯は先の1点が確認されています。書状と違い非常に数が少なく、さらにこれらは実際に掲げられたあとがあり、多くの住民が見たものとおもわれるだけに貴重です。

おいでよ天下人の城展
秀吉の名が岐阜の人たちの目に新たな統治者として刻まれたのですね。

本能寺の変から、山崎の戦い、清須会議、賤ヶ岳の戦い

本能寺の変の時、伊勢の神戸(かんべ)城主であった織田信長の三男・織田信孝は変後 「中国大返し」してきた羽柴秀吉に合流、名目上の総大将として山崎の戦いに参戦し、仇である明智光秀を撃破した(六月十三日)。

その後の清須会議にて、織田軍の総大将であったにもかかわらず、織田氏の後継者は甥の三法師に決まる。信孝は三法師の後見役として兄信忠の領地であった美濃国を与えられた。
岐阜城は斎藤利堯が占拠していたが光秀が討死後に明け渡し、信孝の家老となった。

岐阜城の信孝はその後、秀吉と対立する柴田勝家に接近し 勝家と叔母のお市の方との婚儀を仲介した。
十二月 越前(福井県)の柴田勝家が雪で動けないのを好機と見た羽柴秀吉は突如として信孝に対して挙兵し、岐阜城を囲んだ。十二月二十日信孝は降伏せざる得ず、三法師を秀吉に引き渡した上、母らを人質として提出させられた。
これが賤ヶ岳の戦いの始まりとなる。これにより秀吉は美濃を支配し美濃千手堂に禁制を出すことになった。

次は【66】織田信長黒印状 岐阜城に侵入したものを撃退してお褒めの言葉もらう

【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第1章 天下布武への道 3 小牧山城・岐阜城と天下布武(蓬左文庫第2室)
展示番号 65,68,69番

まとめ:藤麿呂

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