7/15~9/10開催の企画展「天下人の城」(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)について徹底リポート!

「天下人の城」〜徳川美術館応援団〜

展示紹介

(5)伏見城 秀吉の隠居場所が「公」の城に 【137】豊臣秀吉朱印状 瀧川彦二郎ら宛

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隠居の城なのに豊臣政権の公儀の場となった伏見城

おいでよ天下人の城展
ここからは第2章巨大城郭の時代 金箔瓦の荘厳の(5)伏見城です。
原さん
関白をおいの豊臣秀次に譲った秀吉が隠居城として築いた城です。伏見城といわれる城は2つあって、最初に築いたのは指月(しげつ、「しづき」とも)の岡という所に築いた城です。
おいでよ天下人の城展
慶長大地震でつぶれてしまうのですよね。
原さん
正確には文禄5年(1597)です。その年に改元されて慶長元年になるので、俗に慶長の大地震と言われてますけど、実際まだ年号でいうと文禄5年の時に、大地震が京都方面で起こり、最初に築いたこの指月伏見城は、天守が崩壊するという壊滅的な被害を受けました。
おいでよ天下人の城展
この、応援団のぅにょんさんが描いてくれた地図を見ると、最初の城は宇治川のほとりで地盤は弱そうですね。

2つの伏見城(イラスト:ぅにょん)

原さん
秀吉はすぐ北東側にあります木幡山という所に城を移して、そこに新たな自分が終の棲家となる伏見城を築くわけです。
おいでよ天下人の城展
大坂城は豊臣家の「私」城、伏見城が豊臣政権の「公」の城として、2城体制で進んでいくのですね。
原さん
木幡山の伏見城はその後、関ヶ原の前哨戦で落城した後、徳川家康が改修して作り直しましたが、最終的には廃城となった後、江戸時代はずっと城跡として残されてきました。しかし、明治になって明治天皇が亡くなられた時に明治天皇陵「桃山御陵」になったので、今中心部は全く立ち入りが出来なくなっています。

おいでよ天下人の城展
「安土桃山時代」の「桃山」はここの伏見城のことなんですね。今は天皇陵になっているんですか。

原さん
立ち入りが出来なくなりましたが、逆にいえばそれ故に、古い形態がまだ残っています。北側には公園があって、大きな堀が残っています。

おいでよ天下人の城展
ブラたもりでやっていた巨大な堀ですね。堀底が大きなグラウンドになっていました。
原さん
注目されるのは、最初にあった指月伏見城が、これまで遺構が全く無かったのですが、ここ数年になって、城や周りの大名屋敷の石垣が発掘調査で出てきました。今まで幻とされていた、秀吉の一番最初の指月伏見城がようやく姿を現すようになってきました。

【137】豊臣秀吉朱印状 瀧川彦二郎等3名宛 名古屋市博物館(前期8/15までのみ展示

【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第2章 巨大城郭の時代  四 金箔瓦の荘厳(本館7室1)
(五)伏見城
展示番号137 番(前期のみ)
おいでよ天下人の城展
秀吉はどんなことを言っているのでしょうか。
原さん
伏見城を造る際に、瀧川彦二郎ら3人の普請(ぶしん)奉行に対して命令したものです。文禄三年(1594)から、指月伏見城で普請が始まりました。
おいでよ天下人の城展
「普請」とはなんですか?
原さん
城造りは、土木工事である「普請」と天守などの建物をつくる「作事」に大きくわかれます。伏見城の普請は、主に東日本・北陸の大名に命じられました。しかし、工事現場に張り付いて監督をしていない大名がいたようで、秀吉はそれを知って怒って、普請奉行に現場の点検と普請参加者の名簿を作成して提出するように命令したのがこの朱印状です。
おいでよ天下人の城展
さぼった大名には大変な雷が落ちたことでしょうね…

次は【138】徳川家康伏見城普請中法度 「秀吉の家臣に殺されても我慢しろ」天下人秀吉に従う一大名だった家康

【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第2章 巨大城郭の時代  四 金箔瓦の荘厳(本館7室1)
(五)伏見城
展示番号137 番(前期のみ)

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