織田信長書状 一霊軒・花井右衛門尉兵衛宛 徳川美術館蔵
【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第1章 天下布武への道
二・清須城と桶狭間合戦(蓬左文庫第一室西側)展示番号 35番
第1章 天下布武への道
二・清須城と桶狭間合戦(蓬左文庫第一室西側)展示番号 35番
おいでよ天下人の城展
桶狭間の合戦前後に関する記録は徳川美術館にはないのですか?
原さん
あまり知られていない資料ですが、これは信長の書状の中でも古いものです。天文二十年(1551)の父・信秀の死後まもなく、鳴海城が敵方になりました。しかし、信長は裏切りを放置するのではなく、天文24年(1555年)の段階で鳴海城に対する対策を講じていたことがわかる書状です。
おいでよ天下人の城展
裏切った鳴海城の山口氏に味方したと思われる星崎の武士の所領を没収するよう、家臣の一雲軒針阿弥らに命じているのですね。
原さん
星崎は今は鳴海と地続きですが、当時は鳴海の西側は海(潟)で、海を挟んだ対岸の半島の突端でした。
おいでよ天下人の城展
今行っても目の前に海が広がっていたとは信じられませんね。新幹線も普通に通っているし。それにしてもさらに西に今川方が増えてきたら信長は大ピンチでしたね。
原さん
このように桶狭間の合戦はいきなり始まったものではなく、いくつもの政治的なものを含む長い戦いの中で信長がある程度、周囲を固め、補給路を確保し、鳴海城、大高城の近くに付城(つけじろ)をつくれるくらいの力を持った上での桶狭間の合戦であったのです。
おいでよ天下人の城展
通説では、今川義元が上洛するためにいきなりやってきて、信長に降伏を迫ったがこれを拒否したために合戦になったとされていますが。
原さん
そうではなく、1つの境目の城に対して、さんざん長い間攻防を続けて、信長がある程度付城を造れる状態となってきたので、境界線が危うくなってきたと判断した義元自身が出陣してきたと考える方が正しいのではないでしょうか。
【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第1章 天下布武への道
二・清須城と桶狭間合戦(蓬左文庫第一室西側)展示番号 35番
第1章 天下布武への道
二・清須城と桶狭間合戦(蓬左文庫第一室西側)展示番号 35番