織田信長黒印状 横井伊折(時泰)【よこいいおり ときやす】宛 (天正二年=1574年)六月七日 個人蔵
第1章 天下布武への道
三・小牧山城・岐阜城と天下布武(蓬左文庫第二室)
展示番号66番
時泰は、本能寺の変後、信長次男・信雄に仕えた後、関ヶ原合戦で徳川方に属して赤目5800石を安堵され、尾張家の重臣となった。
城ファンにはおなじみの高天神城とは
この黒印状の中に出てくる高天神城の有名な言葉で「高天神を制すもの遠江を制す」とも言われ難攻不落の名城は現在でも沢山のお城ファン行きたいお城の上位に入るお城のひとつです。
2017年4月6日(城の日)に続100名城にも選ばれますます注目されているお城です。
さて、高天神城とはどんな歴史があったのでしょうか?
信玄も落とせなかった難攻不落の城
武田・徳川による遠江の領地支配の決戦の舞台となり、「風林火山」で有名な武田信玄でさえ落とせなかった元亀2年(1571)の戦いで、信玄は大軍を率いて高天神城を包囲しますが、小笠原氏が死守したことにより、落城しませんでした。
これが「難攻不落の城」と言われる始まりです。
息子の勝頼が奪取に成功
信玄死後は信玄の息子武田勝頼と徳川家康との戦いが高天神城を巡り起こりました。
天正2年(1574)5月、第一次高天神城の戦いで、武田勝頼は勝利し、父、信玄さえも落とせなかった高天神城を落としました。
勝頼は有頂天だったことでしょう。しかし、その後、この勝利が勝頼の人生に暗い影を落としていきます。敵の領内に楔(くさび)をうつことは、逆にいえば、そこを維持するための労力やコストは大変大きくなるからです。
家康が再奪取
天正8年(1580)10月、第二次高天神城の戦いが始まります。
徳川家康は高天神城奪還作戦として、周囲に城山、横須賀城、さらに六砦を築き、兵站ルートを強化します。他も20か所に砦があったと伝わります。
そして、高天神城は徳川方にドンドンと追い込まれていきます。
この戦いで勝頼は救援したくても出来ない状況下にあり、城兵を見捨ててしまう事になります。
勝頼が救援しなかった事もあり結果高天神城は天正9年(1581)3月、落城してしまいました。
ここから武田家は滅亡へと加速して行くことになります。
まとめ:にの
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第1章 天下布武への道
三・小牧山城・岐阜城と天下布武(蓬左文庫第二室)
展示番号66番