車軸火鉢 伝加藤清正名古屋築城時使用車軸転用 徳川美術館蔵
尾張名所図会 全編 巻一「加藤清正石引の図」同館蔵
第2章 巨大城郭の時代 五 東海の要衝(本館7室2)
(二) 清正伝説
展示番号197,200
こうして神様となった加藤清正は、彼にかかわる伝説がいくつか江戸時代に生まれ、加藤清正に結びつければなんでもありがたいと考えられるようになっていきました。
【197】は、荷車の輪の中心を元にして木の枠を火鉢に転用したものです。
火鉢のまわりには今でいう、車輪の軸が刺さるような穴がまわりにあいています。
この火鉢はかつて清正が巨大な石をこの上に載せて運んだ荷車の車軸だ、ということで重宝されました。
【200】の絵でも荷車の上に巨大な石を載せ、その上に清正をはじめ、現在でいう「イケメン」の男子が4、5人乗っています。しかし、当時の車の車軸では実際にはこの重さに耐えられないので、昭和4年に購入したこの車軸火鉢は、清正がのぼったものではないのではと考えられています。これも伝説です。
【200】の尾張名所図会「加藤清正石引の図」では、清正が熱田から巨大な石を運ぶ様子がみられます。
清正自身が石を飾り、イケメンを並べ踊らせ、そして清正も石の上にのり、片鎌槍で木遣り音頭をとりました。
すると、たくさんの見物人が集まったため沿道には多くの店ができました。
当時と現在では売買の方法が異なり、実際の販売価格より値段を高く設定し、値引き交渉の上で価格を決めていく方法で商品取引がおこなわれていた(掛け値)なのですが、清正はこれらを値切らず、すべて掛け値のまま購入。
その高値で買った食べ物・酒らを見物の人々にばらまきました。
そして
「これを食べたものは全員綱を引け」と命じて
石の綱を引かせあっという間に巨大な石までもすべて名古屋城に運び込んでしまった。
このような伝承が清正をいよいよ神格化、伝説化させ、クローズアップさせることとなるのです。
次は【198,199,201】長烏帽子形兜、片鎌槍、虎頭蓋骨 ところがリアルの清正も虎と戦うマンガ並の武神だった!
第2章 巨大城郭の時代 五 東海の要衝(本館7室2)
(二) 清正伝説
展示番号197,200