羽柴秀吉大阪築城掟書 前野将右衛門(長康)宛 天正十一年八月廿八日付 大阪城天守閣蔵 (前期8/15まで展示)
第2章 巨大城郭の時代 四 金箔瓦の荘厳(本館7室1)
(二)大坂城
展示番号104
天正十一年(1583年)に賤ヶ岳で柴田勝家を破ったのち、秀吉は信長が築城構想していた石山本願寺跡地に、城郭建設を開始した。
この城郭は、大規模な石垣の堀、天守を備えた壮麗なものとなり、各地の大名の城郭建設に多大な影響を与える。
本状は、大坂城着工3日前に出された、石持(石運び人夫)に関して定められた掟書である。
切り出した石に印を付けてあっても誰でも取り次第であり、奉行が取り置いた石以外は、どの石を持ち運んでもよい。
人夫の宿については、石場に野陣を張ってもよいし、大坂に宿を持つ場合はそれぞれの宿から出させてもよいので、それぞれの大名で対応せよ。喧嘩口論は罪とするが、一方が我慢して秀吉に言上した場合は相手方のみを処罰する。下々の百姓に対して謂れなきことを申し懸けた者は有罪とし、それを許した場合はその主人の大名まで処罰する。
といった内容。
本状の宛所は前野将右衛門(長康)宛だが、同日付で赤松弥三郎や黒田孝高、一日おくれて一柳直末にも同内容の文書が発給されている。大坂城普請に駆り出されている多くの秀吉旗下大名に、同様の掟書が発給されたものと思われる。
まとめ・藤麿呂
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第2章 巨大城郭の時代 四 金箔瓦の荘厳(本館7室1)
(二)大坂城
展示番号104