109 長束正家書状 溝大炊(溝江長氏)宛 慶長四年(1599) 大阪城天守閣蔵 後期(8/16~)のみ
豊臣家の奉行職の一人・長束正家から、越前(福井県)の金津城主・溝江長氏へ宛てた大坂城の堀を普請する工事への動員状です。120人の動員を命じています。
これも一つ前の福島正則宛ての書状(前期のみ展示)と同様に、秀吉の死後に出されているのですね。まぁ、あちらは死んでいるはずの秀吉の名前で出されていましたが。
文中の「中納言」は小早川秀秋のことです。当時、秀秋は越前国の北庄城主(のちの福井城)で、溝江は秀秋の与力だったため、それまで大坂城の普請役は免除されていました。しかし、慶長四年(1599)に秀秋が国替えとなり、溝江は与力でなくなったため、新たに動員が命じられたのです。
独立すると責任が増えて大変ですね。
豊臣5奉行 浅野長政、前田玄以(げんい)、石田三成、増田長盛(ましたながもり)、長束正家(なつかまさいえ)