尾州知多郡大高之内鷲津丸根古城図 蓬左文庫蔵
【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第1章 天下布武への道
二・清須城と桶狭間合戦(蓬左文庫第一室西側)展示番号 40番
第1章 天下布武への道
二・清須城と桶狭間合戦(蓬左文庫第一室西側)展示番号 40番
おいでよ天下人の城展
いよいよ信長のターンですね。読売新聞の「探訪東海百城」から、ここまで何度か出てきている信長の「付城戦略」について、応援団番号1でもある千田先生が説明している部分を引用します。
――広範囲に信長を包囲した義元に対して、信長が打った戦略とは。
千田嘉博・奈良大学長(城郭考古学) 兵の数で劣る信長は自分の有利な場所に義元をおびき寄せる必要があり、今川方の鳴海城(名古屋市)と大高城(同)を五つの砦とりでで取り囲みました。これは、味方の城が攻撃されれば主君は必ず救援に行く「後詰ごづめ」という戦国時代の決まりを利用したもので、助けに来た今川軍を地形を利用して迎撃する作戦でした。
信長が桶狭間の勝利のために綿密な戦略をたてていたことがわかるのが、善照寺砦(同)です。五つの砦の一つで、攻撃するはずの鳴海城と同じ丘陵にあるのですが、丘の頂上部を挟んでお互いが見えないのです。攻めるはずの相手の城が見えないという不思議な立地にした理由は、信長の秘密の作戦行動を隠蔽するためと考えられ、今川軍を迎撃する目的でこの場所に造られたことが浮かびあがるのです。
おいでよ天下人の城展
富永商太さんの俯瞰イラスト(千田先生監修)を見ながら、今川方の2つの城とそれを取り囲む信長の付け城(砦)の位置をごらんください。
原さん
今回展示しているのが大高城を包囲した織田方の鷲津砦・丸根砦の図面です。これは非常にきちんと測量をした図面で、砦の形態がよく分かるものです。現在も大高城の附(つけたり)として国史跡に指定されているが、丸根砦のほうは周りを全部住宅に囲まれ古墳のようにぽつんと辛うじて残っています。ところが、鷲津砦の方は、残念ながら、おそらく指定の際に地番を間違えたと考えられ、本来の城の主郭部分があったところと全く異なる山の斜面を指定域にしているのです。今の国の指定になっている部分には何の城跡もありません。
おいでよ天下人の城展
そうだったんですか!たしかに丸根砦は小さいながらも明らかな遺構がよくわかりましたが、鷲津砦は広い斜面が広がるばかりで、ただヤブ蚊に刺されるばかりで、なにがなんだか分からなかった記憶があります。
原さん
本来の鷲津砦の部分のほとんどがすでに住宅になっています。この図にかかれた五分の四はなくなっており一部が辛うじて残っている状態です。なぜ地番を間違えたかは不明です。高田徹先生がこの図を元に検証したところ、昔の航空写真からすると少なくとも昭和の初めまでは遺構がこの図面に描かれたように残っていた形跡があるそうです。せっかく指定をして守ることができたはずなのに、惜しいことをしたと思います。
おいでよ天下人の城展
残った部分はせめて保存されてほしいですね。(鷲津砦公園で蚊に刺されたのは無駄だったのですね涙)
【展示場所】(場所・番号などは変更されている場合があります)
第1章 天下布武への道
二・清須城と桶狭間合戦(蓬左文庫第一室西側)展示番号 40番
第1章 天下布武への道
二・清須城と桶狭間合戦(蓬左文庫第一室西側)展示番号 40番